現在、自分のフェイスブックで上げて居る「トミーのよもやま話」をまとめてます。
トミーのよもやま話@「佐田岬」
何故か幼少の頃から自分が語る空想や推論、与太話を聴きたがる人が多いのです。それをフェイスブックで上げて行こう思います。
今回は「佐田岬」、愛媛県ではあまり聞きませんが大分県側では「佐田岬は巨木が倒れて出来た、お陰で九州と四国は地続きだった。」と言う民話が残ってます。
こちらHPでも紹介されて居ます、参考にどうぞ http://morinokakera.jp/?p=69272
この民話を知り自分はその木の切り株は何処だろう考えました。上げてる画像の四角の赤線内を巨木とするなら、(高さ、およそ50kmの巨木になる。上空50kmは成層圏に達しオゾン層が形成されている。)赤丸で囲んだ高縄半島の存在が異様に見えてくる、高縄半島全体が巨木の根と思いませんが、東大栗の医座寺に巨木伝説が残ってます http://izaji.jp
中々興味深い話です。
(地質学的には佐田岬は四国を通る中央構造線によって形成されており、高縄半島も花崗岩層で出来ており、火山由来言われています。)
トミーのよもやま話A「高天原」
前回の「佐田岬」の巨木を思いついた時に、続けて出てきた考えがあります。
古事記に登場する神様で天地開闢で生れる三神の高御産巣日神です。この神様は「高木の神」と呼ばれ巨木を暗示させます。
更に国譲り神話では大国主神への使いを出し、天孫降臨で邇邇藝命を下界に下ろしてます。
もしや高木の神が巨木なら高天原はその上に在ったのでは?
次に注目したのは高天原から天津神が降り立った所です。
スサノオノミコトが出雲の船通山、タケミカヅチノオノカミは出雲の伊那佐の浜、ニニギノミコトは宮崎県の高千穂、ニギハヤノミコトは大阪府河内へ。(地図の紫の印)
地図の赤い印は高天原が在ったされる場所です。関東圏の3ヵ所を例外とし、高縄半島(水色の印)を中心とした半径約250km圏(紫の輪)に入ります。
佐田岬だった巨木が高天原だったのかも…。
(前回で地質学的に否定していますし、古事記の話が近畿から九州にかけての話なので瀬戸内海が中心に成るのは必然ですね…。)
トミーのよもやま話B「扶桑木」
伊予市森の大谷海岸で「珪化木」(樹木化石の一形態。)採取でき、天然記念物で県指定文化財となってます。
その昔、本邦の西国に「扶桑木(ふそうぼく)」と称する大木があり、外国の船がはるかにこの扶桑を認めて、日本の目当てとしたことから日本を「扶桑国」と言った、という俗説があります。
参考 http://www.let.osaka-u.ac.jp/kaitokudo/mame/story05.html
上記の内容に因んでの伊予市の「扶桑木」です。
北米に見られる様なメタセコイヤなどの化石で伝説に在るような巨木では無いようです。ですが、珪化木を含む郡中層には緑色片岩を多く含み佐田岬の先まで存在しますし、更に郡中層は斜め75〜80度に傾いています。もし結晶片岩が珪化木と同一し出来る面があれば超巨大な木が在った証に成るかも?
(郡中層の傾斜は中央構造線の影響と言われて居ますし、結晶片岩の層は和歌山方面から大分へ抜けています。)
トミーのよもやま話C「伊予之二名島」
古事記の国生みの神話に、二番目に誕生する四国を「伊予之二名島」と言う記載があります。
色々な方が推論していますが、腑に落ちない点が多く自分なりに推論してみました。
先ず四国全土を「伊予」と呼んだ事には異論はありませんし、それが一つ目の呼び名だと思います。
次にネットなどで語られる「伊」「豫」説です、見て分かる通り二国に分かれた名前を「二名」と解釈しています。
簡単に内容を説明すると、一つの島に四つの面(国)があり、それぞれ
○伊予国:愛比売、○讃岐国:飯依比古、○阿波国:大宜都比売、○土佐国:建依別、と呼ばれるとあります。
それを、(愛比売・建依別)と(飯依比古・大宜都比売)をカップルに分け、前者を「豫」、後者を「伊」と呼んだ説です。
これだと筑紫島(九州)も「身一而有面四」と同じ記載があります、上記照らすとカップルに成らない男四人で「四名」となりますが、
そうは呼ばれていません。
「二名」の意味は二国では無く、同じ島を重なる意味での二つ名だと思うのです。
更に言うと、古事記の中で既に出ている名前だと思えるのです、(後に呼ばれるなら国生みの段階で書かれる必要が無い。)
候補は「淤能碁呂島」と「高天原」ですが自分が推すのは、「トミーのよもやま話」の主軸、高縄半島:高天原説です。
根拠は、「伊予」の漢字的意味と「愛比売・飯依比古・大宜都比売・建依別」の並びと人物的存在です。
「伊予」の「伊」は読みで「これ」「この」「かの」で英語での冠詞の様です、成り立ちや意味的にも「治める」意味があるし、
伊邪那岐命・伊邪那美命の名にも含まれて居ます。
「予」は「あらかじめ」と言う意味を持ち、二つ揃えるなら「かの初めから」と言うところでしょうか。
さて「愛比売・飯依比古・大宜都比売・建依別」ですが、「大宜都比売」は後の神生みにも登場しますし、古事記では建速須佐之男命に、
日本書紀では「保食神」の名で月読命に殺され穀物を生みます。
「大宜都比売」が神生みの神なら他の3人も相応の神だと思われます。神の名は色々と読みや字が変わりますが、その神を指す意味は名に含まれています。
「建依別」は男の荒々しい神で土佐の太平洋に面した国を治めて居るとなると「建速須佐之男命」を連想させます。
「飯依比古」は「飯」の文字から食物を連想させます、「夜の食国」や「潮の八百重」と呼ばれる「月読命」と被ります。
更に、「飯依比古」「建依別」に挟まれる「大宜都比売」の姿は穀物誕生の神話を彷彿させます。
と成ると「愛比売」は四人の最初に書かれて、麗しい姫と成ると「天照大御神」をおいて他は無いでしょう。
(余談ですが、○「伊邪那岐命」の左目から「天照大御神」右目から「月読命」が生れています。
根の国(出雲)方角を見ると、右に讃岐、左に伊予と並びます。
○「月読命」も「建速須佐之男命」も高天原を追い出されて居る事も意味がありそうです。)
上記を結論付けると、伊予=高天原と成り二名が成立します。
自論と結び付けると、先ず高天原(高縄山の巨木)が在り、その下を矛で刺し「淤能碁呂島」(高縄半島)を創り、
そこを足掛りとして国生みを行い、淡路島の次に「伊予之二名島」(四国)を「淤能碁呂島」に沿う様に創った。
もちろん「淤能碁呂島」の上には高天原あり、高縄半島が在る「愛比売」が後々も伊予を名乗ったが私の推論です。
トミーのよもやま話D「愛比売」
前回に登場した愛比売、現在の愛媛県の由来でもあります。全国でも珍しい神様の名を由来とした県名です。
今回、この愛比売と言う神様を調べてみました。
古事記に登場するのは国作り「伊予之二名島」の記載のみです。
ならば、何処に祀られて居るかを調べました。
伊豫豆比古命神社 松山市居相2-2-1
伊豫神社 伊予市上野2485
伊豫神社 伊予郡松前町神崎字小斎院193
上記の三社が在りました。
特に気になったのが伊豫豆比古命神社(椿神社)です。
境内社に勝軍八幡神社があり祭神は誉田別命と天照大日霊命(天照大神)。更に椿神社の神紋は十六弁八重表菊、皇室と同じです。
次に思いついたのは、他の飯依比古、大宜都比売、建依別はどの様に各県で祀られて居るかを調べました。
飯依比古は飯神社(香川県丸亀市飯野町東二字山根20)、気になるのは境内社に伊勢社(天照大神と豊受大神(大宜都比売))が在ること、私の説では愛媛と徳島挟まれて居る姿に見えます。
ここも神紋は十六弁八重表菊です。
大宜都比売は一宮神社(徳島県徳島市一宮町西丁237)と
上一宮小栗神社(徳島県名西郡神山町神領字西上角330)、
一宮神社の神紋は稲束丸に粟の字、
上一宮小栗神社は丸に抱き粟です。
建依別は祀ってる神社は存在しませんでした。
推論として、愛比売を天照大神とすると、神紋の十六弁八重表菊は天皇祖としての印しに見立てることが出来、飯依比古を月読命として同じ神紋を持つことに納得がいきます。
さらに建依別を須佐之男命と見立てると大宜都比売を殺し出雲に行ったので祀って居る神社が無いことに納得がいきます。
(ですが、須佐之男命を祀って居る須佐神社は高知に多く存在します。)
トミーのよもやま話E「石鎚山」
昨日(H29/09/17)の台風による大雨も抜け、今日は良い天気です。
愛媛に住む人なら、「石鎚山が台風から守ってくれる。」、「台風は石鎚山を越えられない。」などの話を聴いた事が一度ならずありますよね?
古くから修験道の霊峰として崇められ、今もなお信仰の対象でもある「石鎚山」を取り上げます。
石鎚山は標高1982m、西日本最高峰です。1500万年前は火山だったらしく、面河渓などで見られる安山岩は当時に形成されたものです。
更に260万年前に中央構造線の大断層の急激な隆起によって現在の姿に成ったと言われてます。
紀元前63年に「崇神天皇第三十五年石鎚の峯に神を勧請す。」と言う伝説があり、
西暦685年に役小角が開山、引き続き、上仙法師が開山したと伝えら修験場として繁栄し、後に空海も修行の場として訪れています。
更に役小角が天狗として石鎚山を守護すると言う伝えがあります。
古事記では神産みの家宅六神の一柱、石土毘古神として大事忍男神の次に誕生し、
家宅六神の中で石土毘古神だけは石巣比売神とペアの存在で語られています。
さて、ここからが本題です。
「石鎚山」を祀る石鎚神社には投げ石の伝説があり、伊曾乃神社とペアで語られています。
古事記の記述の「石土毘古神、石巣比売神」で祀られて居るかと思いきや、
伊曾乃神社の祭神は「伊曾乃神」で天照大神の荒魂と武国凝別命を2柱まとめて総称してます。
伊予市にも似た名前の神社、伊曾能神社が在り、祭神は天照大神です。
この神社もペアに成る神社が在り、それが伊豫神社です、祭神は愛比売と月読命です。
(トミーのよもやま話番外編A前編で訪れています。)
両神社とも伊曾乃神社・伊曾能神社を東として、石鎚神社・伊豫神社が西側に在ります。
これは天照大神が太陽神だからだと思われますが、石土毘古神、天照大神、愛比売に深い関係性があるように思えるのです。
更に着眼点を変えます。「石鎚山」は西日本最高峰だから、古くから霊峰と祀られ古事記にも山の代表に例えられる様に思えますならば、何時、西日本最高峰と分かったのでしょう?
調べましたが確かな事は得られませんでした。高さを求める三角測量の装置、照準望遠鏡が発明されたのが西暦1611年、日本で富士山の測定を行ったのが1727年です。
この時代よりも早かった事は無いでしょう。
なら何故「石鎚山」?と言う疑問が生じます、四国内であれば、、そこに登ればある程度比べられるでしょうならば、他の九州や中国地方、近畿は?
「石鎚山」が遇されたのは山の高さでは無く、重要なモノの近くに在ったからと言う理由が成り立つのでは?
そこで自論、高縄山:高天原説の登場です。
天照大神が居る高天原の近くに「石鎚山」が在ったからだと推論できます。
トミーのよもやま話F「高忍日売大神」
トミーのよもやま話(番外編B)で訪れた「高忍日売神社」の「高忍日売大神」を取り上げてみようと思います。
神社の由来は「九州の日向国高千穂峰に降臨された天孫邇邇尊(ニニギノミコト)と、大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤヒメノミコト)との間に日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト)がお生まれになりました。この命と海神(ワタツミノカミ)の娘豊玉毘売命(トヨタマビメノミコト)とが結婚されてお生まれになったのが日子波限建鵜葺草葺不合命(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)で、初代神武天皇の父君です。
ところで、日子波限建鵜葺草葺不合命がお生まれになる折のお話ですが、日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡られている際に、妻神が急に産気づかれて近くの海岸で産屋を建てて、お産をされることになったのです。
そこで、鵜茅(ウガヤ→茅ではなく産屋を指す言葉だとする説もある)で産屋を葺いてその中でお産をされるのですが、海からたくさんの蟹がはい上がってきて産屋まで入り大変な難産になりました。豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と一心に唱えられると高忍日賣大神が顕現され、天忍日女命と天忍人命と天忍男命を遣わされ、天忍人命と天忍男命には箒を作って蟹を掃き飛ばさせ、天忍日女命には産屋に入って産婆の役目をおさせになりました。
これにより始めは難産だった豊玉姫も安産され、産屋が葺きあがらないうちに無事男のお子様をお産みになりました。そこで、日子穂穂手見命は、お子様を日子波限建鵜葺草葺不合命と命名されました。
この神話から、当社の御祭神は産婆・乳母の祖神、また、箒の神として多くの人々から崇敬されています。皇室のお産の折には、当社に安産御祈祷のご依頼があります。」
と「高忍日売神社」のHP http://www.takaoshihime.jp/introduction.html にあります。
上記の内容は『古事記』や『日本書紀』には記されていません。にもかかわらず現代に至るまで皇室の安産御祈祷を依頼され、「『伊予国風土記逸文』には聖徳太子道後行啓の折に伊予郡を巡られたとあり、当社に参詣して「~号扁額」を奉納されました。」とあります。
田舎神社の妄想と言うには難しいところがあります。
ちなみに古事記では、海辺に鵜の羽を屋根にした産屋を築き、豊玉毘売命が中に入るさい、「すべての者はお産のとき、もとの姿に戻るといいます。ですから、どうか私を見ないでください」と懇願し、産屋に入ります。
ところが日子穂穂手見命は中を覗いてしまいます。中に居たのは大きなワニザメになって這いのたくっていた。
日子穂穂手見命は慌てて逃げ出し、正体を見られた豊玉毘売命は生れた鵜葺草葺不合命を置いて海に帰ります。
さて、ここからが本題です。
「日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡られている際に」とあります。
日向は現在の宮崎県です、そこから豊後水道を北に進み難所である豊予海峡を抜け伊予灘に入る訳ですが、舟遊びで難所が存在する航路を選ぶかと言う疑問です。
同じ疑問は子孫である神武天皇東征で古事記では速水の門の行は吉備、高島の宮(岡山県)の後に有るが、日本書紀では東征出発の最初に有る。
研究者の間では、日本書紀の速水の門は豊予海峡、古事記の速水の門は明石海峡とされています。
ここで登場、自論「高天原:高縄山説」で考えると、この時代では高天原である佐田岬と成った巨木は健在であり、豊予海峡は存在しなかったのではないか?
そうなると速水の門は古事記の明石海峡が妥当となる。さらに東征が進み長随彦に苦戦を強いられたさい天照大神により霊剣・八咫烏・黄金に輝く鳶などの援助・援軍が行われている。
従って、豊後水道には豊予海峡は存在せず伊予灘に至る所まで穏やかな海であった思われます。鵜葺草葺不合命の出産に現れた天忍日女命・天忍人命・天忍男命は高天原より使わされたのかもしれません。
高天原が倒れ佐田岬が何時出来たかと言う謎が残りますが、これは別に書こうと思います。
トミーのよもやま話G「アマビエ様」
武漢肺炎が流行しだした頃から「アマビエ様」の画像をネットで良く見る様になりました。
そこで自分なりに色々と調べて分かった事を上げて行こうと思います。
「アマビエ様」の出現は弘化3年4月中旬(1846年5月、江戸時代後期)と記されており、
Wikipediaからの転写ですが、
肥後国(熊本県)で『毎夜、海中に光る物体が出没していたため、役人が赴いたところ、それが姿を現した。
姿形について言葉では書き留められていないが、挿図が添えられている。 その者は、役人に対して「私は海中に住むアマビエと申す者なり」と名乗り、
「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った。』
上記の「アマビエ様」予言はコレラの事と思われますが、日本での流行は九州から始まり第一期は1822年(文政5年)、世界的に流行した第二期は日本では被害が無く、
第三期の1858年(安政5年)から3年にわたり大流行しました。予言された時期が少々ずれて居る事から考えて、
上記の事から第一期の被害(九州から東海道)と第二期の海外からの情報で発されたコレラへの警戒を含めた意図的な流言であった可能性があります。
その後も「アマビエ様」に類する存在の目撃例が上がります。
またWikipediaからの転写ですが、
『「アマビエ」という名称については、目撃記録が一つしかなく、また名の意味が不明であることから、「アマビコ」という同種の妖怪の誤記という説が提唱されている。
湯本豪一は、「アマビコ」を記述した史料例として「アマビエ」を含めて7件を挙げる。また、長野栄俊は湯本が挙げる7件の比較を拡張して合計9件としている。
いずれも海中からの出現、豊作や疫病の予言、その姿を写した絵による除災、3本以上の鰭ないし足による直立という外見などが共通しており、両者とも同種と考えている。』
注目すべきはその姿と名前に有ると思い調べてみました。
先ずは名前ですが、「アマビコ」を漢字にするなら海から現れた点を考慮して「海彦」「尼彦」、「海彦」で思い出されるのは古事記に書かれる「海幸彦と山幸彦」です。
そして、またもWikipediaからの転写ですが、
『肥後国青鳥郡の海にも「アリエ」という予言獣が出現したと1876年(明治9年)6月17日付の山梨日日新聞が報道している。ただし、これに関しては「青鳥郡」という郡が実在しないことから当時としても疑わしいニュースと見なしており、同年6月30日付の長野新聞でも「妄説」と断じている。』
肥後国に青鳥郡は無いのですが、お隣の宮崎県、日向国には青島があり、そこにある青島神社には「海幸彦と山幸彦」が祀られて居ます。更に諸祈願に挙げられるは結縁、安産、病気平癒家内安全、海上交通安全。
海幸彦には海産物の寄生虫を祓ったと言う謂れがあり、取り付くモノを祓うイメージが有ったように感じられます。
更に姿からは、「アマビエ様」は海、鱗、三本足。「アマビコ様」は海、猿の様、三本足。共通して居るのは海と三本足ですが、海は名から来ている事が容易に想像が付きます。
では三本足は何処から?日本神話で有名な三本足の生物は「八咫烏」だと思います。
この「八咫烏」にはモデルがあり中国神話の太陽に棲む鳥だと言われています。
Wikipediaからの転写ですが、『陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適している』とあり、
病の状態を陰と正常な状態を陽と見立て、陽と陽で挟む事で病からの回復をイメージしたのではないでしょうか。
まとめるに、アマビエ様の存在は伝染病への警戒と病からの回復を願った思いから生まれたモノの様です。
現在の世界で蔓延している武漢肺炎の流行から回復する事を願って私も絵を書いてみました。三本足の八咫烏と病を封じる籠目、紫色は太陽光に含まれる紫外線、
「捲土重来」の文字は八咫烏が救った「海幸彦と山幸彦」の子孫である神武天皇が一度敗れても再び挑み勝利した事に習い、再び平穏な日常が戻る事を願っての言葉です。